
2011年3月11日に発生したマグニチュード9.0の東北太平洋沖地震(東日本大震災)から、今年で15年の節目となります。この震災は時代認識が震災前/震災後に分かれるほど重大な影響を国全体にもたらしましたが、地震災害が社会構造や都市づくりを一変させたケースとしては、1923年(大正12年)の関東大震災(関東地震)もその一つ。この災害もまた東京を中心に関東地域に大きな傷痕を残しつつ、そこからの復興事業を通じて東京は大きく変貌していくことになります。
その痕跡を都内で最も色濃く残しているのが、23区東部を流れる隅田川。この河川をまたぐ橋梁のいくつかは、関東大震災後に架橋もしくは修復された「復興橋梁」です。これらの橋はいずれも、デザインも、設計も、橋にまつわる見どころやエピソードも様々。当記事ではこの復興橋梁を北から南へ順にたどりつつ、その注目ポイントを紹介します。

目次
当時最先端の建設・防災技術を投入した復興橋梁

関東大震災が発生したのは1923年9月1日の午前11時58分、マグニチュードは約7.9と言われています。建物の倒壊や火災、地滑りといった大被害が関東全域で発生し、死者は合計で約10万5000人。とりわけ本所区(現在の東京都墨田区に相当)では陸軍被服廠跡で大勢の避難者が火災旋風に飲まれ、3万8000人もの人が亡くなりました。
灰燼(かいじん)に帰した帝都東京の復興のため、当時の内務大臣・後藤新平は復興計画の策定に着手、同年9月12日には「帝都復興に関する詔書」が公布されました。その後、様々な議論を経て復興計画の内容が確定し、区画整理・道路整備・公園事業・学校建設・インフラ整備といった復興事業が急ピッチで進められます。
その復興事業の一環として、隅田川の橋の少なさや破損・焼損が被害拡大につながったことを踏まえ、多くの新しい橋が架かることとなりました。震災で大破した橋梁3本の修復に、新設された橋6本が加わり、東京市役所の「帝都復興事業図表」内で『復興九大橋梁』と呼ばれることになります。(※奇跡的に破損しなかった新大橋を加えて『十大橋』という記述もあり)
当時の復興事務局が編さんした「帝都復興事業誌 土木編」には、橋梁工事にあたって綿密な地質調査を実施し、橋梁自体の沈下を防ぐために基礎底面の拡張を行ったほか、耐火構造も採用したことなどが書かれています。一部の橋の基礎には、軟弱地盤対策として「井筒工法」「圧搾空気沈函工法(ニューマチックケーソン工法)」といった当時の最新技術が用いられ、頑健な橋づくりのための徹底した努力と、都市復興への熱意が見受けられます。
復興後の帝都にふさわしい「橋梁美」を

こうした防災機能に加えて、帝都復興事業誌では下記のとおり『橋梁美』に言及しています。
所謂『美』は橋梁構造の本来の目的ではないが、行人の視目に映ずる都市構造物の一つとして、橋梁の外観に快適の威あるを要し、且つ周囲の風致と能く調和し、或は周囲の風致を能く啓発して、更に都市の美観に資すること大なるを要すべきは言を待たないのである。
「帝都復興事業誌 土木編」より(※読みやすさを考慮し、一部を新字体に変換しています)
新しい帝都を誇りある街並みにつくり変えるべく、橋の機能だけでなく美観やたたずまいにも注力されていたことが伺えます。このほか、美を(橋の)構造それ自体に求める「構造主義」と、構造の外側から飾り立てる「装飾主義」の折衷を述べるなど、橋梁美の概念については事業誌内でもかなりの行数を割いて説明されています。

耐震性と橋梁美の両面を反映して復興橋梁は誕生し、その多くが現在でも現役。ここからは帝都復興事業図表で復興橋梁として挙げられているもののうち、最北の言問橋から最南の相生橋まで、隅田川を南に進みながら復興九大橋梁+1を見て周ることにしましょう。
言問橋・吾妻橋・駒形橋は浅草エリアに好アクセス
言問橋:1928年(昭和3年)新規架橋

復興橋梁巡りは、台東区・浅草寺裏手の言問通りを東方向に進んだ先にある、言問橋からスタート。形式は橋桁をヒンジ(蝶番)でつなげたゲルバー橋で、漢字の「一」のようにシンプルで無骨なデザインです。平成日本の建設技術が生んだ傑作・東京スカイツリーとのツーショットもお見事。
橋名の由来は平安時代の歌人・在原業平の歌からという説が有力。1945年(昭和20年)の東京大空襲では橋上で多くの人々が焼死し、震災だけでなく戦災の悲劇も現在に伝えています。
言問橋から南に進むと、東武伊勢崎線の鉄道橋に沿って2020年に架けられた歩道橋「すみだリバーウォーク」が見えてきます。この橋もコロナ禍の最中にオープンし、現在は人気スポットに。橋にはどこか災害や苦難を乗り越える力もありそうです。




吾妻橋:1931年(昭和6年)旧橋梁を復興

次の吾妻橋は一大観光スポット・浅草に直結する橋として有名です。1774年(安永3年)に「大川橋」という木橋が架けられ、1887年(明治20年)に隅田川初の鉄橋「あづま橋」へと一新するものの、関東大震災で木製の橋板が焼失。昭和になって現在の橋の姿になりました。
橋の形式は弓状構造物(アーチ)の上に橋桁を載せた「上路式ヒンジアーチ橋」。浅草寺のような真っ赤な見た目が力強くも華やかで、夜間ライトアップも美しいため、特に橋下の川沿い遊歩道がデートスポットとして人気です。墨田区側のアサヒグループ本社ビルとオブジェ、墨田区役所、スカイツリーもライトアップされて吾妻橋と同じ画角に入るので、とりわけ夜にSNS映えする橋と言えます。
なお、言問橋と吾妻橋の間にある川沿いの『隅田公園』も復興橋梁と同様、帝都復興事業により1931年(昭和6年)に誕生。台東区側・墨田区側の両岸とも、現在は平和の場や桜の名所として親しまれています。




駒形橋:1927年(昭和2年)新規架橋

次の駒形橋は、中央部分が大きく緩やかな半円アーチの中間に路面が走る中路式、その両側はアーチの上に路面がある上路式、という2種類が組み合わさったアーチ橋。柱型の橋灯などが昭和初期に流行していたアールデコ様式の形をしており、個性的な外観です。こちらも夜間に青白くライトアップされ、吾妻橋から特に良い風景を拝めます。
駒形という名前は、橋の台東区側にある史跡『駒形堂」に由来。近くには人気の老舗『浅草むぎとろ本店』もあり、都営浅草線・浅草駅や浅草寺雷門にも比較的近いため、吾妻橋と同様に浅草観光ついでに渡ってみるとちょうど良いでしょう。




蔵前橋の近くには震災の悲劇を伝える公園が
厩橋:1929年(昭和4年)旧橋梁を復興

駒形橋は橋桁の上にどっしりしたアーチが1つでしたが、次の厩橋はリズミカルなアーチが3つ。1874年(明治7年)に木橋として架けられたものが1893年(明治26年)に鉄橋に架け替えられるものの、震災で木製の橋板が焼けてしまった後に再建されるなど、吾妻橋と似通った経歴を持っています。
その名の由来は江戸時代に幕府の「御厩(馬屋)」が多数あったことから。この橋名に合わせて、親柱や照明などには1987〜1989年の再整備により馬のレリーフが取り付けられています。




蔵前橋:1927年(昭和2年)新規架橋

続く蔵前橋は3連アーチの上に橋桁が載っており、先ほど紹介した吾妻橋とカラーリング以外は酷似した形状です。一方で吾妻橋と明確に違うのは、橋の下。吾妻橋の橋下は墨田区側が通り抜け不可、台東区側が小さなトンネル通路になっているのに対し、蔵前橋は川沿いの遊歩道がそのまま橋下を通っているので、アーチ橋の鉄骨を橋の裏側からじっくり観察できます。
関東大震災の火災旋風で多大な被害が出た陸軍被服廠跡からも、蔵前橋は直近。現在その跡地は『横網町公園』となっており、壮絶な震災被害を伝える『東京都慰霊堂』『東京都復興記念館』も園内で見学可能です。慰霊や学習の目的で復興橋梁を巡る際は、ぜひこちらも見ておきましょう。




両国橋:1932年(昭和7年)旧橋梁を復興

同じく震災時の記憶を伝えているのが、墨田区両国の『回向院』。ここは震災当時の住職が廃墟の東京を歩いて巡回供養をしたことで知られており、境内には『関東大震災供養塔』が残されています。
その回向院から直近にあるのが両国橋です。初架橋は江戸時代の1659年(万治2年)もしくは1661年(寛文元年)とも言われており、何度かの架け替えを経て1904年(明治37年)に鋼橋となり、震災後に現在の形となりました。形式は言問橋とほぼ同型の力強いゲルバー橋。江戸時代の橋も1657年(明暦3年)の『明暦の大火』で大勢の人が逃げ遅れて焼死した出来事を受けて架橋されたものであり、江戸時代と近代と両方の大火災に関わる橋となっています。
隅田川と言えば隅田川花火大会ですが、江戸時代末期の浮世絵師・五雲亭貞秀(歌川貞秀)の「東都両国ばし夏景色」には、花火の見物客で満員のにぎわいとなる両国橋が描かれています。江戸と現代で変わらない花火文化に想いをはせつつ橋を渡るのも良いでしょう。




復興橋梁の中には「人助け橋」「重要文化財」も
新大橋:1912年(明治45年)架橋、震災被害を回避 1976年(昭和51年)架け替え

ここまで震災後に新設もしくは復興した橋梁を紹介してきましたが、次に紹介する新大橋は奇跡的に震災を無傷で乗り切ったため、厳密には復興橋梁のカウント外。その一方、震災被害を免れたがゆえに避難路として多くの人々を救った「人助け橋」として知られており、帝都復興事業図表では復興橋梁9本と合わせて十大橋として扱われています。
震災当時の橋は1912年(明治45年)架橋のトラス橋でしたが、橋の老朽化のため1976年(昭和51年)に現在の橋に架け替えられています。形式は主塔から斜めに張ったケーブルで橋桁を吊るしている斜張橋で、ここまで見てきた他の復興橋梁に比べると全体デザインはかなりシンプル。戦前・戦後の橋づくりの違いを如実に見て取れます。
なお、最初の橋は江戸時代の1693年(元禄6年)に架けられた木橋。後にゴッホにも影響を与えた歌川広重の浮世絵「大はしあたけの夕立」にも描かれています。




清洲橋:1928年(昭和3年)新規架橋

その次の清洲橋は復興橋梁でも最も流麗な外観が有名で、「震災復興の華」とも称されたほど。2007年には国の重要文化財にも認定されており、復興橋梁に求められた「橋梁美」を最も強く体現した橋です。
名称は現在の江東区側にある「清」澄と中央区側の日本橋中「洲」とをつなぐことが由来。形式は主塔から曲線状にメインケーブルを吊り下げ、そこから縦方向の吊りケーブルを下ろして橋桁を支えている、レインボーブリッジのような吊り橋型です。
なお、清洲橋とレインボーブリッジではメインケーブル両端部の固定の仕方が異なり、レインボーブリッジは橋のそばに設けられたアンカレイジと呼ばれるコンクリートのかたまりにケーブルを定着させる「他碇式吊り橋」であるのに対し、清洲橋はケーブル両端を橋桁に直接固定する「自碇式吊り橋」という形式を採用しているのが特徴です。
清洲橋はドイツ・ケルンにあった吊り橋がデザインのモデルであり、橋脚や橋台の基礎に軟弱地盤対策として、当時最先端だったニューマチックケーソン工法が採用されています。近づいてみるとケーブルの張り方や照明など細部装飾の美しさが魅力的で、特に夜間ともなればライトアップでさらにレトロな風合いを増します。
清洲橋の周辺は隅田川遊歩道もかなりきれいに整えられており、特に江東区側の『かわてらす』では、水辺空間を活用したテラス付きのカフェやホテルなども営業。天気の良い日には隅田川・清洲橋・水上バス・ビル群・スカイツリーがワンセットになった特上の時間を満喫できます。




「帝都の門」を守る永代橋
永代橋:1926年(大正15年)旧橋梁を復興

清洲橋からさらに先へ進み、首都高速9号深川線とワンセットになった隅田川大橋(1979年竣工)の下をくぐると、復興橋梁散策もいよいよ終盤。この先にある永代橋は大正時代の1926年竣工と、復興橋梁の中で最も早い時期に架けられた橋です。
永代橋は清洲橋とセットで語られることが多く、吊り橋型の清洲橋が繊細で女性的であるのに対し、アーチ型の永代橋は強靭で男性的と例えられることもしばしば。アーチ両端の立ち上がり部分は道路と同じ水準を這うように伸びているため、鉄骨に無数のリベットが打ち込まれたインダストリアルな外観を、歩道を歩きつつまじまじと観察できます。佃島〜月島のタワーマンションを背景にした夜間ライトアップも非常に美麗。
永代橋の初架橋は江戸時代の1698年(元禄11年)。このころはまだ月島や晴海などの埋立地がなく、永代橋のある辺りが隅田川の河口となっていました。それゆえ永代橋は東京湾と隅田川を区切る「江戸の入り口」であり、震災復興以降は「帝都の門」とも呼ばれています。




相生橋:1926年(大正15年)旧橋梁を復興 2000年架け替え

永代橋の先で隅田川は二又に分岐し、片方は月島と築地の間を通って浜松町近くで東京湾につながり、もう片方は豊洲方向に流れて運河と一体化します。特に豊洲方向の流路は『晴海運河』と呼ばれますが、この先にあるのが、今回最後に紹介する復興橋梁・相生橋です。
相生橋は中央区の月島と江東区の越中島の間にあり、橋の途中で『中の島』という小島を中継しているのが特徴。1903年(明治36年)に架けられた初代の橋は中の島で2つに分かれており、相生大橋・相生小橋とも呼ばれていました。中の島は隅田川唯一の水上公園『中の島公園』となっています。
震災後に架設された橋梁は老朽化のため平成期に架け替えられ、現在はトラス橋となっています。橋の月島側ではタワーマンション(リバーシティ21)に隣接する水辺の公園(中央区立石川島公園)でくつろげるほか、越中島側には東京海洋大学のキャンパスや見学施設があるなど、周辺の散策スポットにも恵まれています。




隅田川と橋梁から見える「東京史」の断面
ここまで言問橋から相生橋までの復興橋梁を探訪してきました。隅田川沿いをゆっくり歩いても3〜4時間ほどで全て回れるため、休日のウォーキングにはうってつけ。関東大震災からの東京復興、その後の戦災や占領期、高度経済成長から現在まで、東京という街の変遷を想像しながら休日に巡ってみると良いでしょう。




また、隅田川には壮麗なビジュアルの中央大橋、中央の開閉機構が有名な勝鬨橋、言問橋より北側にある橋など、復興橋梁以外にも見どころは数多。いずれも独特の外観とストーリーを持っており、都心部からもアクセスしやすいので、一部だけを休日の散策ルートに組み込むのもおすすめです。
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【参考資料】
東京市役所編(1930)「帝都復興事業図表」
復興事務局編(1931)「帝都復興事業誌 土木編 上巻」
武村雅之著(2012)「関東大震災を歩く 現代に生きる災害の記憶」吉川弘文館
東京今昔町あるき研究会編(2013)「隅田川の橋」彩流社